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2011年03月10日

萩原朔太郎とハーモニカ

北原白秋がドイツ製のハーモニカを吹いたことは前回書きました。その白秋が最も信頼を寄せた詩人のひとりに、高村光太郎とともに日本の口語自由詩の確立者として知られる萩原朔太郎がいます。朔太郎もやはり若き日にハーモニカを吹いたのでした。

朔太郎は1886年、明治19年に群馬県前橋の医師の家の長男として生まれます。白秋は二つ年上で、大正6年に朔太郎が『月に吠える』を出版する頃には白秋は抒情詩人としてまばゆい存在でした。その4年前の大正2年に白秋が主宰する『失樂(ザムボア)』という雑誌に初めて朔太郎の短歌が掲載されます。これが彼の中央詩誌への初登場でした。朔太郎は白秋と親交を結びます。

朔太郎は幼少時から将来、医業を継ぐものと期待されて育ちました。両親からの溺愛を一身にうけながら自分の思いとは異なる生き方の強要に深く絶望し、苦悩します。名門中学、名門高校への進学を果たしながらも学業には身が入らず、大学も入退学を繰り返しました。

汗水たらして働くのが当時の尋常の暮らしぶりながら、朔太郎は職業につくこともせずに自分でデザインした斬新な洋服を着、トルコ帽をかぶって茶店などに日毎出入りする不良青年で、周りの人々から白い目で見られる存在でした。

両親に屋敷の一隅に書斎を建ててもらい、マンドリンやギターを中心にした音楽クラブを作って音楽と詩作にふけるいわば生活無能者としての日々を送るのでした。朔太郎より二つ年下の室生犀星もよくここを訪れ、詩論をたたかわせたりして交流を深めました。人一倍鋭敏な神経を持つ朔太郎にとっては音楽と詩作だけが心の慰めでした。

朔太郎は本気で音楽家になることを考えた時期もあって、何度か音楽学校の入学試験にチャレンジしたようです。白秋同様にドイツのハーモニカに親しみ、やがてハーモニカからマンドリンやギターに関心は移ったのでしょう。ところで朔太郎にマンドリンを教えてくれたのは日本に初めてハーモニカを持ち帰った比留間賢八でした。

比留間は東京音楽学校を小山作之助とともに明治20年に卒業し、その後アメリカ、ドイツへと渡ります。民族楽器への関心があってチターを学ぶのですが、明治24年、母の病状悪化の報に接して急遽帰国することになりました。そのときにチターを二台とハーモニカを数本持ち帰ったのでした。これが日本へやってきた初めてのハーモニカです。

明治32年には再びドイツへ渡り、二年後に帰国するときには今度は日本に初めてマンドリンを持ち帰りました。大正3年にはマンドリン教授に専念し、朔太郎はじめ、里見 弴、桐朋学園創設者の一人、斎藤秀雄、画家の藤田嗣治そして宮田東峰も門下生でした。
ハーモニカを愛した二人の詩人は奇しくも昭和17年、戦争のさなか朔太郎は5月、白秋は11月に病に倒れ不帰の客となりました。

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